表現の自由考

SNS時代の『発言しない自由』再考:デジタル・ウェルビーイングと自己規制

Tags: SNS, 表現の自由, デジタル・ウェルビーイング, 自己検閲, オンラインコミュニケーション

現代社会において、SNSは情報収集や他者との交流、自己表現のための不可欠なツールとなりました。誰もが容易に意見を発信し、世界中の情報にアクセスできるようになったことは、表現の自由を享受する上で大きな進歩と言えます。しかしその一方で、SNSの利用がもたらす様々な負担やプレッシャーを感じ、「疲れる」と感じる利用者が少なくありません。この「SNS疲れ」は、単に精神的な問題に留まらず、個人の表現活動や、ひいては社会全体の言論空間にも影響を与えうる側面を持っています。

SNS疲れがもたらすもの

SNS疲れの原因は多岐にわたります。常に新しい情報が流れ続けることによる情報過多、他者のキラキラした投稿との比較による自己肯定感の低下、人間関係の維持に要する労力、不用意な発言による炎上リスクへの恐れ、そして、特定のコミュニティやフォロワーから期待される役割を演じることへのプレッシャーなどが挙げられます。 このような精神的な負担は、個人の表現活動に直接的な影響を与える可能性があります。活発な交流や意見表明が難しくなり、投稿頻度が減少したり、当たり障りのない無難な内容に終始したりすることが増えるかもしれません。

表現活動への影響:自己検閲と萎縮

SNS疲れが表現に与える最も顕著な影響の一つに、自己検閲の強化があります。これは、外部からの批判や炎上を恐れ、あるいは単に他者との摩擦を避けたいという心理から、本来表現したい内容や意見を自主的に抑制したり、表現方法を過度に和らげたりする行動です。 例えば、特定の社会問題や政治的な話題について意見を持っていたとしても、「炎上したらどうしよう」「周囲からどう思われるか不安だ」といった懸念から、発言を控えるといった状況が生じ得ます。また、自身のプライベートな出来事を共有する際にも、「完璧な自分」を演出するために内容を加工したり、ネガティブな側面を意図的に伏せたりすることも、ある種の自己検閲と言えます。 このような自己検閲が常態化すると、個人の表現は次第に萎縮し、多様な意見が生まれにくくなる可能性があります。結果として、SNS上の言論空間が画一化したり、表面的な情報や意見が優勢になったりといった歪みが生じることも考えられます。

デジタル・ウェルビーイングの観点

SNS疲れへの対処として近年注目されているのが、「デジタル・ウェルビーイング」という考え方です。これは、スマートフォンやSNSなどのデジタル技術と、心身の健康や幸福との調和を目指す概念です。単に利用時間を減らすだけでなく、どのようにデジタルツールと関わることで、より健康的で満たされた状態を維持できるかを探求します。 SNS利用におけるデジタル・ウェルビーイングの実践としては、情報の洪水から距離を置くための通知オフ、意図的にSNSを見ない時間を作るデジタルデトックス、フォローするアカウントの見直しによる情報源の選別、そして、他者の反応や評価に過度に依存しない心の持ち方などが含まれます。

「発言しない自由」の選択

憲法や国際人権法において保障される「表現の自由」は、一般的に「何かを表現する自由」として捉えられがちです。しかし、同時に「何かを表現しない自由」、すなわち沈黙の自由や自己決定権の一部としての非表現の自由も含まれると考えられています。 SNS疲れによって自己検閲や萎縮が生じる状況は、この「発言しない自由」を半ば強制的に選択させられている側面があると言えます。これは、内面的な要因(不安や恐れ)によって表現が妨げられている状態であり、必ずしも主体的な「発言しない自由」の行使とは異なります。 一方で、自身のデジタル・ウェルビーイングを保つために、意図的にSNSから距離を置いたり、特定の内容について発言を控えたりすることは、健全な自己規制であり、「発言しない自由」の主体的な選択と捉えることができます。重要なのは、それが外部からの圧力や内面的な恐れによる「萎縮」なのか、それとも自己の健康やバランスを保つための「選択」なのかを見極めることです。

責任ある表現とデジタル・ウェルビーイング

自身のデジタル・ウェルビーイングを意識することは、結果的に責任ある表現にもつながる可能性があります。心身ともに疲弊した状態での衝動的な発言は、他者への配慮を欠いたり、不正確な情報を含んだりするリスクを高めます。休息を取り、冷静な状態で情報に向き合うことは、より建設的で責任ある表現を行うための基盤となり得ます。 また、過度な承認欲求や他者との比較から無理な表現を続けることは、自身の精神的な健康を損なうだけでなく、周囲にもネガティブな影響を与えかねません。自分自身の状態を適切に管理することは、SNSという公共空間における責任の一つであると考える視点も重要かもしれません。

結論

SNS疲れに代表されるデジタルツールの利用に伴う負担は、現代の表現の自由が直面する新たな課題の一つと言えるでしょう。発信することの容易さが向上した一方で、その環境下で心身の健康を保ちつつ、主体的な意思に基づいた表現を続けることの難しさが増しています。 デジタル・ウェルビーイングを意識し、自覚的にSNSとの距離感を調整したり、情報の取捨選択を行ったりすることは、単に個人の健康を守るだけでなく、表現の自由を「萎縮」から守り、「主体的な選択」として行使するための重要な手段となり得ます。 SNSを利用する一人ひとりが、自身のデジタル・ウェルビーイングに意識を向けることは、より健全で多様な言論空間を維持していくための一歩となるのではないでしょうか。自身の表現と向き合う上で、立ち止まり、休息する勇気もまた、重要な要素と言えるのかもしれません。