SNSにおける『正義』の落とし穴 善意の匿名発言が招くリスク
インターネット、特にSNSの普及により、個人が意見や考えを発信する手段は飛躍的に拡大しました。これは、憲法が保障する表現の自由を現代社会において実感する上で重要な変化であると言えます。しかし、SNS上で見られる多様な発言の中には、「正義感」に基づいてなされたと見られるものが、結果的に予期せぬ問題を引き起こすケースも少なくありません。自身の「善意」からの発言が、なぜ時として他人を傷つけたり、自身が責任を問われたりする事態を招くのか、表現の自由との関係性を含めて考察します。
SNSにおける「正義感」の発露とその背景
SNS上では、社会的な不正や不道徳と感じられる事象に対し、多くの人が強い憤りや問題意識を持ち、これを批判・糾弾する発言を行うことがあります。こうした発言の多くは、行為者自身の内にある「正義感」に根差していると考えられます。
SNSの特性である匿名性、即時性、拡散性は、個人の「正義感」を増幅させる要因となり得ます。現実社会では面と向かって言いにくいことも、匿名のベールに隠れることで大胆に発言しやすくなる場合があります。また、共感や賛同の声が集まることで、自身の「正義」が強く確固たるものであるかのように感じられ、批判的な意見を持つ人々や対象に対して、より攻撃的な態度をとる傾向が生まれることも指摘されています。瞬時に情報が拡散されることで、冷静に状況を判断する時間的猶予が失われやすい点も影響しているでしょう。
「善意」が招きうるリスクと責任
「正義感」に基づく発言であっても、その内容や方法によっては様々なリスクを伴います。
一つ目は、情報の不正確さや誤解です。限られた情報や断片的な情報に基づいて判断し、それを「正義」として発信してしまうことがあります。情報源を確認せず、あるいは感情的に判断してしまうことで、事実と異なる内容を拡散し、無関係な第三者や企業を傷つけてしまう可能性があります。
二つ目は、対象への過度な攻撃です。批判や問題提起の域を超え、特定の個人や団体に対する誹謗中傷、名誉毀損、プライバシー侵害といった不法行為に至るケースが見られます。「悪」を討つ「正義」という感情が強くなるほど、攻撃対象を人間としてではなく「糾弾されるべき存在」としてのみ捉えがちになり、過剰な表現に繋がりやすくなります。
三つ目は、自身の法的・社会的な責任です。「正義感」に基づく発言であっても、他者の権利を侵害すれば、名誉毀損罪や侮辱罪といった刑事罰の対象となったり、民事上で損害賠償請求を受けたりする可能性があります。匿名アカウントからの発信であっても、プロバイダ責任制限法に基づく発信者情報開示請求により、身元が特定されるケースも増えています。「正義」の名の下で行われた行為であっても、法的な責任から免れることはできないのです。
表現の自由の限界と「正義感」のバランス
表現の自由は、民主主義社会における重要な基盤であり、思想・良心の自由とも密接に関わります。しかし、この自由は無制限ではありません。公共の福祉に反する場合や、他者の権利や利益を不当に侵害する場合には制約を受けます。
「正義感」からの発言も、この表現の自由の範囲内でなされる必要があります。たとえ自身が強く正しいと信じていても、その発言が他者の名誉やプライバシーといった法的権利を侵害するものであれば、それは表現の自由の濫用とみなされ、責任が問われることになります。
SNS時代においては、匿名性や瞬時の拡散性といった特性を十分に理解した上で、「正義感」と責任のバランスを意識することがこれまで以上に重要です。自身の発言が、単なる感情の発露や攻撃となっていないか、情報の真偽は確かか、特定の個人を不当に傷つけていないかなど、発信する前に一呼吸置いて考える習慣が求められます。
責任ある「正義」の発露へ
SNSにおける「正義感」からの発言は、社会的な問題を提起したり、不正を批判したりする上で有効な側面も持ち得ます。しかし、それが「善意」という名の裏に潜む落とし穴とならないためには、常に責任ある姿勢が不可欠です。
匿名であるか実名であるかにかかわらず、インターネット上の発言には必ず発信者が存在し、その発言は社会に影響を与えます。自身の「正義」を主張する際には、その方法が他者の権利を侵害しないか、情報の正確性は担保されているか、感情的な言葉になっていないかなど、多角的に自己チェックを行うことが、現代における責任ある表現のために重要であると言えるでしょう。自身の発言がもたらす影響を常に意識し、建設的なコミュニケーションを心がけることが求められています。